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契約魔法第五条により、旦那様は妻に愛を告げられません
契約魔法第五条により、旦那様は妻に愛を告げられません
Autor: みだん

第1話 契約書を最後まで読む女

Autor: みだん
last update Data de publicação: 2026-10-26 18:52:25

リゼット・ベルナールは契約書を最後の一行まで読む女である。

春の午後の光が、ベルナール子爵家の古い応接間に斜めに差しこんでいた。

色の褪あせた絨毯の上で細かなほこりがゆっくりと舞い、窓の外では父が手入れを欠かさない薔薇のつぼみが、まだ固く口を閉じている。

「――というわけだ、リゼット。お前はドナン男爵の後妻に入る。期限は一か月。それで兄さんの借金は帳消しになる」

叔父のロジェは上等な外套がいとうの襟を指先で直しながら、天気の話でもするように言った。

整えすぎた口ひげが、得意げに持ち上がる。

向かいの長椅子では、父のジェラールが両手を膝に置いたまま、うつむいていた。

日に焼けた手の甲に、細かな土が残っている。

今朝も庭に出ていたのだろう。

この人は困ったことがあると、決まって土に触れに行く。

「ドナン男爵というと、金貸しの」

「そうとも。王都でも指折りの資産家だ。六十を過ぎて独り身でな、若い妻を望んでおられる。お前にはもったいない話だぞ」

リゼットは膝の上で組んだ指に、少しだけ力をこめた。

泣くべき場面なのだろう、と頭の片隅で思う。

けれど涙より先に浮かんできたのは、我ながらあきれるほど事務的な問いだった。

「叔父様。その借金の、借用契約書を見せていただけますか」

叔父の眉が、ぴくりと動いた。

叔父は昔から、真顔で見上げてくる姪の黒い瞳が苦手だった。

三白眼の猫目は本人にそのつもりがなくても、相手を値踏みしているように見えるらしい。

「なに? ……その目つきはやめろ。相変わらず可愛げのない」

「父の名前で借りたお金なのでしょう。いくらを、いつまでに、どういう条件で返すのか。読まずに決めることはできません」

父が顔を上げ、困ったように娘と弟を見比べた。

その目には、どちらの味方をすればいいのか分からないという迷いが浮かんでいる。

「リゼット、ロジェは私たちのために、男爵と話をつけてくれたんだよ。ロジェの事業のことで、何度か書類に名前を書いたからね。そのどれかなんだろう」

「どれか、ですか」

「どれだったかなあ……」

父は本当に分からないという顔で、首をかしげた。

リゼットは胸の内で、そっとため息をついた。

父は書類を渡されれば読まずに名前を書く人だ。

相手が弟ならなおさらで、読むことなど思いつきもしない。

そのたびに損をして、そのたびに笑って許してきた。

母を早くに亡くしてから、この家の帳簿をつけているのがリゼットなのは、つまりそういうわけだった。

「原本は契約院に預けてある。写しなど持ち歩くものか」

叔父は鼻を鳴らし、外套の裾を払った。

「読んだところで何も変わらんよ。条文なんぞ、どれも同じだ」

叔父の言い分にも、一理はあった。

契約書というものは、たいてい長い。

回りくどい言い回しが何十条も続き、三枚目あたりで目が滑りはじめる。

しかも条文を書くのは、金を貸す側や物を売る側だ。

借りる側が異を唱えたところで、「お気に召さないなら、よそへどうぞ」と言われて終わる。

どうせ一文字も変えられないのなら、読むだけ時間の無駄だと、誰もが思う。

おまけに社交界では、差し出された契約書を隅々まで読むのは無作法とされていた。

あなたを疑っています、と言うのと同じだからだ。

末尾の数行に至っては、どの契約書にも並んでいる決まり文句だと思われていて、目を通す者はまずいない。

それでも、とリゼットは思う。

条文がどれも同じなら、なぜ叔父は、借用書を見せることをこんなにも嫌がるのだろう。

「では、契約院で拝見します」

彼女は立ち上がり、スカートの裾を整えた。

それから肩に流していたプラチナの髪を、うなじの低い位置でひとつに結ぶ。

契約書を最後まで読むときの、彼女の昔からの習慣だった。

「最後の一行まで読んでから、お返事します」

部屋を出る前に、リゼットは父の肩にそっと手を置いた。

土のついた大きな手がためらいがちにその手に重なる。

大丈夫です、と目だけで伝えると、父はようやく少しだけ笑ってくれた。

王都の中央に建つ契約院は白い石造りの大きな建物で、昼下がりでも人の出入りが絶えなかった。

高い天井の閲覧室には紙とインクの匂いが満ち、窓際の長机では書記たちのペン先が紙をこする乾いた音が、途切れることなく続いている。

親族として閲覧を申し出ると、職員が棚の奥から一枚の証書を運んできた。

右下に押された魔法印が窓からの光を受けて、淡く脈打つように光っている。

この国では大事な約束ごとに契約院の魔法印が押され、期日の定めがあれば、魔法がひとりでに約束を執り行うことさえある。

リゼットは椅子に浅く腰かけ、人差し指で一行ずつなぞりながら、一行目から読み始めた。

債権者、ドナン男爵。

債務者、ジェラール・ベルナール子爵。

記された金額は、屋敷と領地をすべて手放しても届くかどうかという額だった。

返済の期日、利息、遅れた場合の取り決め。

条文は隙なく組まれていて、素人がつけ入る余地はどこにも見当たらない。

最後の一行まで読み終えて、彼女はもう一度、末尾の署名欄に目を戻した。

ジェラール・ベルナール。

見慣れた、少し右に傾いた父の字だ。

けれど、何かが足りない。

父は署名の最後に、必ず小さな点を打つ。

インクが紙になじんだのを確かめるような、癖とも呼べないほどの小さな点だ。

家の帳簿に残る何百という父の署名の、そのどれにもそれはあった。

この署名には、その点がない。

急いでいたのかもしれない。

インクがかすれただけかもしれない。

点ひとつで何かを言い立てるには、あまりにも心もとない。

リゼットは証書を丁寧に職員へ返すと、胸の奥に小さなとげが刺さったような心地のまま、閲覧室を後にした。

一階の窓口の前には、順番を待つ人々の列ができていた。

磨きこまれた床に靴音が響き、あちこちで交わされる条件の確認の声が、低いざわめきになって高い天井へ昇っていく。

列の先頭では、恰幅のいい貴族が得意げにペンを取ったところだった。

「読むまでもない。契約院の印が押される契約に、おかしな条文などあるものか。さあ、署名しよう。これで東の果樹園は、晴れて我が家の――」

窓口の机に広げられた契約書が、ちょうどリゼットの立つ位置から見えた。

見るつもりはなかった。

けれど文字が並んでいると、目が勝手に追ってしまう。

それは彼女の、もうどうしようもない性分だった。

第四条。

代金は引き渡しの日に一括で支払う。

第九条。

代金は十二回に分けて毎月支払う。

「あの」

気づけば、声が出ていた。

「第四条と第九条が矛盾しています。このままでは、代金を二重に支払うことになりますよ」

窓口の職員が固まり、貴族がぽかんと口を開けた。

列に並ぶ人々の視線がいっせいにリゼットへ集まる。

頬がかっと熱くなったが、言ってしまった言葉は戻らない。

「な、何を言う。小娘に契約の何が分かる――」

「その通りだ」

奥の扉から、よく通る声がした。

現れたのは、二十代半ばほどの青年だった。

袖をまくったシャツはしわだらけで、えんじ色の強いくせ毛が好き勝手な方向に跳ねている。

背は高いのに少し猫背で、目の下にはうっすらと隈が浮いていた。

何より目を引いたのは、その指先だった。

十本の指のほとんどが、インクで黒く染まっている。

青年は大股で窓口に歩み寄ると、リゼットが言った二か所だけを確かめて、あっさりと頷いた。

「第四条と第九条。見事に食い違っている。魔法印は約束を守らせるための印であって、約束の中身が正しいと保証する印ではありません。これに署名していたら、あなたは果樹園を倍の値段で買うところでしたよ」

貴族の顔から血の気が引き、職員が慌てて頭を下げる。

周りの人々から、ひそひそとささやきが漏れた。

顧問だ。

グランヴィル公爵閣下じゃないか。

公爵。

リゼットは思わず一歩下がった。

そんな身分の人が、なぜインクまみれの指で、こんな窓口に立っているのだろう。

「君、少しいいかな」

青年はそう言うと、返事も待たずに中庭のほうへ歩き出した。

契約院の中庭には、咲きはじめたばかりの白い花が石畳の縁を飾っていた。

中央の噴水が小さな水音を立て、ついさっきまでの喧騒を、ずいぶん遠くへ押しやってくれる。

「テオドール・グランヴィル。ここの顧問をしている。君は?」

「リゼット・ベルナールと申します。ベルナール子爵家の者です」

「ベルナール嬢。さっきの契約書、どこから読んでいた?」

「一行目からです」

リゼットが即答すると、公爵の眉がわずかに上がった。

値踏みをするというより、答え合わせを楽しんでいるような顔だった。

「窓口の列に並んでいた、あの短い時間で?」

「目に入ってしまったので。……読み始めると、最後まで読まないと落ち着かないんです」

青年は珍しい標本でも見つけたような目で、彼女をしげしげと眺めた。

くせ毛の下からのぞく青い瞳が、星を散らしたようにきらきらしている。

ぶしつけなはずのその視線に、なぜか嫌な感じはしなかった。

そこにあるのが、混じりけのない好奇心だけだと分かったからだ。

「契約院には毎日、山のような契約書が持ちこまれる。だが、最後まで読む人間はほとんどいない。署名する本人でさえ、だ」

「知っています。父が、そういう人なので」

リゼットが苦く笑うと、公爵は面白そうに首をかしげた。

「なら、なぜ君は読む?」

問われて、リゼットは噴水の縁に目を落とした。

水面の上で、春の光が細かく砕けては揺れている。

父の困った顔。

叔父の得意げな口ひげ。

点のない署名。

今日一日で見たものが、胸の中で静かに重なった。

「最後の一行で、人生が変わることがあるからです」

公爵は一瞬、目を見開いた。

それからインクで汚れた指先で顎に触れ、何かを計算するように黙りこむ。

「……採用だ」

「はい?」

「明日から、契約院で働かないか。ちょうど、契約書を最後まで読める人間を探していたところなんだ」

リゼットは目の前の公爵閣下のインクまみれの指を見つめたまま、しばらく返事をするのを忘れていた。

このとき、彼女はまだ知らない。

この風変わりな公爵が、やがてある契約書の最後の一行に、彼女の名前を書きこむことになるのを。

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